明後日から始まる芝居「蝶」について
またしても少しばかり長くなりますが(この間程ではないです)「蝶」についてのお話、少しお付き合いください。
映画や演劇を含む表現に於いて、言葉は不要。
そういう意見、大いに分かります。
ただ、それを全てをやり詰めた人間に許されたコトバではないか。
そのような人は一体いるのだろうかと。
とすると、言葉はいらない。というのは表現者の怠慢ではないかと。傲慢ではないかと。
確かに、身体、声、空気、目の当たりに体感するそれは、言葉を軽々と超越するものに違いありません。
ただ、そこに辿り着く前に大勢の人が、その私たちの傲慢さによって、脱落していく。それが全てを置き去りにして、分断していく現状になってるんじゃないかと。
言葉はその先の表現へと繋げる架け橋のようなもので、それをやはり諦めたくはないのです。
今回演じる「蝶」について、その言葉はどういった経緯で生まれたのか。様々な説があります。
その1つが、「手符」
もともと「蝶々」は「てふてふ」と呼ばれていました。
「手符」は両手を広げた形、それを2つ合わせると蝶のような姿になることから「てふてふ」になったと。
蝶は上に横にひらひらと不可思議な舞い方をします。それは他の昆虫にも、鳥類にも類を見ません。
これが語源の英語で「phychic」とは「霊魂のー。心霊のー。」という意味。
蝶は人の魂を運ぶものとして捉えられていたのですね。不可思議な舞いが天まで繋がっていると、魂が昇華するものと、考えられていたのでしょうか。
そして、また一転
これは「夢と現実の区別がはっきり出来ないこと。」「人生とは儚いこと」を意味しています。
荘子が夢の中で「蝶」になった夢から目覚めるも、はたしてそれは「人間」の自分が夢の中で「胡蝶」になったのか、それとも「胡蝶」の自分が夢の中で今「人間」になっているのか。というお話です。
そんな「胡蝶の夢」のような、虚構と現実の境界線を無くすような時間を、今回の芝居「蝶」で体感して頂けたら嬉しいなと。
「自分」という定義はとても曖昧です。どうやって定義付けようにも証明する決定的な術はありません。やはり、どこまでもほとんどのものは不明瞭で不確定です。
そんな中で、確かに今ここにある物語に出逢って頂ければと思います。
長々といつものようにまとまりのない話となってしまいましたが、読んで頂きありがとうございます☺︎
これが終わったら、年内は映画のみで、演劇ははやらないかもしれません。(今の予定では。)
最後の一糸まで燃えようという覚悟です。
是非観に来て頂けると嬉しいです。
お席もありがたいことに8/3 15:30の回は完売致しました。
お席のご予約は以下のリンクからか、直接日時をご連絡頂ければお取りさせて頂きます☺︎
連絡先知らない方はツイッターのDM等から。
分からないことや、不安なことがありましたら遠慮なく聞いてください(^^)