ソラリネ。 「蝶」 千秋楽を終えて。
昨日、ソラリネ。「蝶」
千秋楽でした。
まずは、関わってくださった皆さん、ご来場くださった方々、本当にありがとうございました。
この作品に関われたことが本当に誇りです。
初舞台である、昨年5月のソラリネ。「蝉」から一年、また山下平祐さんの元で、主演を演じれた事、大きな宝です。
少しは成長した姿を見せたい(ああ、我執、我執。笑)と思っていたのも束の間、自分の未熟さを痛感しました。
嬉しいことです。ここからなんだと。
ただ、今回悲しい事件と偶然にも重なってしまったのもあり、それが自分の中で日が経つにつれ色濃くなって来てしまい、公での宣伝が難しくもありました。
とても凄い作品ですし、誰かの魂に揺らぎを与えられる作品だと今でも信じて疑わないからこそ、本当に色んな人に見て欲しくて、もっと投稿を書こうとしたのだけれど、なかなか言葉が着地しませんでした。
自分の中に根を張っていない上っ面の言葉を残すのだけはどうしても嫌で。
表現にコンプライアンスなんてクソ喰らえだと、普段から常々思っていますし、そこに踏み込めない表現なら、芸術なら、なんの存在意義があるのかと思ってしまいます。
だからこそ、中途半端な覚悟の表現に対して、怒りのような暴力的な感情を覚えてしまうんですが、理由が今回ようやく明白になりました。
演劇、映画、音楽、芸術は、普段人が向き合いたくない感情や、出来事に時に寄り添い、時に強引に身体ごと掴んで向かせたりします。トラウマを引きずり出したりもします。人の救いになったりもする反面、傷付けもします。
物語に生きることがどれ程の責任を伴うのか。
表現は自由です。ただ、自由というのは、何よりも大きな責任が伴うものです。
自由という言葉を刃物のように振りかざして、無責任な人は僕は信用出来ません。
いつも通り覚悟を決めてやったつもりでした。いや、やり抜くには、いつものそれとは違う覚悟が必要でした。
それが充分なものだったかは分かりません。ただ、あの時の精一杯は充てました。充てたつもりです。
人の為にではなくあくまで自分の為にです。
それ以上でもそれ以下でもないです。「誰かの為に」なんて言葉の裏には傲慢さを感じてしまいます、僕は。
粛々とただ、自分の為に、自分の中のバケモノの存在と対峙するだけです。
その結果、あくまでも結果として、誰かの救いになったとしたら、将来に悩む若者が、仕事帰りで疲れたサラリーマンが、家事育児に疲れた主婦が「明日も頑張ろうかな」っていうくらいの、ほんの些細な救いとなったとしたら、もうこれ以上の事はありません。
少しでも何か残せたでしょうか。優しくあれたでしょうか。そうあれたことを願います。
「おのぞみなら、
非のうちどころなく優しくもなろう、
男どころか、ズボンをはいた雲にでも!」
マヤコフスキーの詩の一節を借りて。
もう少し身体に残ったこの作品の空気を暖めます。
今のところ今年は演劇に出演する予定はありませんが、映画等が控えているので、今後も気にかけて頂けたら嬉しいです。
またしても長くなってしまいました。許してください。
改めて、今回の「蝶」に関わってくださった方々、平祐さん、ゆかりさん、あたたかい座組のみんな、そしてご来場下さった方々、本当にありがとうございました。
ではまたどこかで。